東京地方裁判所 昭和26年(ヨ)3865号 判決
債権者 中山健次
債務者 マルカロフ・ボリス
一、主 文
債権者の本件仮処分申請はこれを却下する。
訴訟費用は債権者の負担とする。
二、事 実
債権者代理人は「債務者の別紙目録<省略>記載の家屋に対する占有を解いて債権者の委任する東京地方裁判所執行吏の保管に移す。執行吏は右家屋のうち東側六畳及び四畳半の二室は債権者に、その他の部分は債務者に使用を許すことができる。」との裁判を求め、その理由として、債権者は別紙目録記載の家屋の所有者であつて、これに居住していたが、昭和十七年暮頃、旧商工省より派遣されて南方々面陸軍司政官に任ぜられ、昭和十九年初頃留守宅の妻子も、妻ヨシイの郷里富山県下に疎開することとなつたので、債務者に対し、本件家屋を賃料一ケ月金六十円毎月前払の約定で賃貸し、債権者が内地に帰還したときは賃貸借は当然解除となる旨特約した。昭和二十一年三月、債権者は内地に帰還し、旧商工省に勤務することとなつたので、同年四月頃債務者に対し、右特約に基き賃貸借契約は当然終了したものとして家屋の明渡を求めたところ、移転先がないから、しばらく猶予されたいと懇請を受けたので、債務者の窮状を了とし、一時東京在勤を断念して、旧東海北陸地方商工局(現名古屋通商産業局)勤務を拝命し、妻子の疎開先たる富山県中新川郡上京町三田市三番地黒田方に居を定めた。しかし債権者は、その後も引続き東京転勤の交渉を受けて居り、そのためには本件家屋の明渡を受けることが先決問題である関係上、機会あるごとに債務者に対し本件家屋の明渡を求め、その結果、債務者は一時昭和二十三年三月限りこれを明渡すことを承諾したこともあつたが、後に至つて前言を飜し、せめて一、二室なりとも明渡されたい旨の債権者の懇請に対しても、外国人たる地位を利用し、種々言を構えて応じてはくれなかつた。その後昭和二十五年十一月に至り、債権者は正式に東京転勤の内命に接し、改めて本件家屋に対する現実の必要にせまられるに至つたので、昭和二十五年十一月十一日、債務者に対し、内容証明郵便をもつて、右自己使用の必要性を理由に、賃貸借契約解約の申入をなし、右意思表示はおそくとも同年十二月十五日までに債務者に到達したから、前記特約に基く賃貸借契約解除の主張が理由なしとしても同日から六ケ月を経過した昭和二十六年六月十五日限り、本件賃貸借契約は有効に解約されたものである。債権者は、以上の理由に基き、債務者に対し、家屋明渡の訴を当裁判所に提起し、右訴訟は目下当裁判所に係属中であるが、債権者の東京転勤については、家屋の明渡ずみまで猶予を得ることが出来ず、昭和二十六年七月一日附をもつて東京通商産業局に配置換を命ぜられ已むなく上京赴任したが、案の如く居住家屋を得ることが出来ず、とりあえず、知人の紹介で、大宮市旭町百九十六番地山本方の一室を二ケ月の約束で借受け、これも富山市所在名古屋通商産業局北陸電力事務所に勤務していたが、同年八月十六日附東京日用品検査所へ配置換を命ぜられ、同年九月初旬上京した訴外長女智子とともに、同所で間借の生活を続けて来たが、同所も二ケ月の経過とともに退去をせまられ、進退に窮して目下は勤務先の同僚たる訴外竹内信男方に仮りの宿を求めている次第である。竹内方も債権者親子を長く同居させるだけの余裕はなくさりとて債権者は、財産としては本件家屋以外に何もなく、債権者と長女智子の俸給が唯一の收入であるにすぎないので、他に適当な借家又は借間を見出す能力がないばかりでなく富山県下には妻ヨシイ以下次女信子(当十七歳)を頭に五男善次(当一歳)に至る五男二女計八名の家族が残つており、これだけの大家族を養つて行くのさえ並大抵のことではないのに、目下の如く二重生活を続けることは経済的に全くたえられないところである。債権者としては一刻も早く東京に住居を見出し家族を呼び寄せて共に貧困を分つ以外に全く生活の道がないのであつて、そのためには本件家屋の明渡を受けるより外に方法がない。債権者は家屋明渡の本案訴訟には勝訴することを確信しているが、債権者の窮状は到底右裁判の確定を待つことができない程急迫してをり、他方、本件家屋は建坪二十六坪、五室に分れて居るところ債務者は目下親子三名でこれに住つて居る状況であつて、非常に余裕があり、仮りにその内東側の六畳及び四畳半の二室を債権者に明渡しても何等生活に不自由を来さないものと考える。
右の次第であるから、本案裁判に先立ち仮の地位を定める仮処分として本件家屋のうち東側六畳及び四畳半の二室を債務者に明渡さしめ債権者に使用させるよう申請に及んだ次第である。と述べた。<立証省略>
債務者代理人は、主文第一項同旨の裁判を求め、答弁として債権者主張事実中、債権者主張の頃、債権者所有の別紙目録記載の家屋を契約解除の特約の点を除き、債権者主張の約旨で借受けたこと、昭和二十五年十一月十一日附の書面で自己使用の必要があるから賃貸借契約を解約する旨の申入れがあつたことは認めるが、債権者及びその家族に関することは知らない。その余の事実は否認する。そもそも本件賃貸借契約は、債権者代理人訴外石原勘右衛門との間に、口頭で成立し、その際は期限については何等の定めがなされなかつたものであるが、後日右石原勘右衛門が契約書を作成したいからと言つて差出した書面をみると、債権者が内地に帰還したら家屋を明渡すという条件が挿入されていたので、約旨に相違する旨を告げ、石原もこれを了承して、ついに契約書を作成するに至らなかつたものである。当時は現在と異り、東京都内には疎開のため空屋が多いに拘らず、借手は殆んどなかつた時代であるから、債務者としては何も好きこのんで期限を切つて借り受ける必要などなかつたものである。債務者は債権者から明渡を求められた際、債権者に本件家屋が必要ならば債務者としても適当な家を探して出来るだけ早く家を明けるようにしたいと申述べたことはあるが、昭和二十三年三月限り家屋を明渡すというような約束をした事はない。また債権者は自己使用の必要があると主張しているが、昭和二十二年頃から度々本件家屋の買手と称するものが家屋を見に来た事があり、昭和二十四年十二月頃には債権者の代理人と称する者から金十八万円で家屋を買取つてほしいとの申込を受けたこともあるので、果して債権者が真に自己使用の意図を有しているか否かは疑わしい。なほ債権者は債権者本人及び長女智子が東京に転勤したから明渡の要求は正当であると主張しているが、債権者が東京に於て住居に困つているとしても、戦後の住居の払底は公知の事実であつて、官公庁や会社では、職員の配置換にあたつては、必ず居住家屋の有無を本人に問合せた上事を決し、居住家屋の目当がないに拘らず、本人の意に反して転勤を命ずることは殆ど無い筈であるから、債権者は東京に居住家屋ありと上申し、自ら転勤を希望したものと認めざるを得ないのであつて、かかる債権者にとつては東京に住居がないという事情は家屋の明渡を求めるための正当事由として考慮さるべきものではないと信ずる。一方、債務者の家庭の状況は目下本件家屋に債務者夫婦と息子一人の他、娘夫婦二組及び女中二名の計九名が居住しており、外国人の習慣として各夫婦、男女が別々に居室を構える事が絶対に必要であるから、家屋は現在でもすでに狭すぎる位である。債務者としても、明渡の要求ある以上、出来るだけ早く他に適当な家屋を見出して転居したい希望は持つているが、債務者本人は目下失業状態にあり、妻の洋服裁断業による收入により生活しているに過ぎない次第であるから、それも不可能な状態である。右の次第であつて、債権者が本件家屋の明渡を求めるための正当事由として主張するところはいずれもその理由のないこと明白であるから、これを理由とする仮処分申請は却下さるべきものと信ずると述べた。<立証省略>
三、理 由
債務者が債権者主張のころ、債権者所有の別紙目録記載の家屋を賃料一ケ月金六十円、毎月前払の約定で賃借したことは、当事者間に争のないところである。
よつて先ず債権者主張のような解除条件に関する特約があつたかどうかについて考えるに、この点に関する証人中山智子、石原勘右衛門の証言及び債権者本人訊問の結果は直ちに措信出来ず、他にこれを認定する疏明がないばかりか、証人マルカロフ・マリヤの証言によれば、本件賃貸借契約は債務者主張の如く、期限については何等の定めをなすことなく成立したものであることを認めることが出来るから、右特約に関する債権者の主張は理由がない。
次に債権者がその主張の日時に、自己使用の必要を理由に賃貸借契約解約の申入をなしたことは、当事者間に争がないから右解約申入れが正当の事由ある場合に当るかどうかについて考えてみるにまず、債権者側の事情としては、成立に争のない甲第六、第八号証、証人中山智子、石原勘右衛門の証言に債権者本人訊問の結果を綜合すると、債権者は昭和二十一年三月内地に帰還したが、本件家屋を債務者が明渡してくれなかつたので、已むなく一先づ、妻子の疎開先たる富山県下に落着き、名古屋通商産業局(当時の東海北陸商工局)に勤務したこと、その後引続き債務者に対し家屋の明渡を求めている中、昭和二十五年十一月に至り東京転勤の内命に接し、越えて昭和二十六年七月一日東京通商産業局に配置換を命ぜられて赴任したが適当な住居を得る事が出来ず、少し遅れてこれも東京日用品検査所へ配置換を命ぜられた長女智子と共に、一時大宮市で不自由な間借り生活を続けたがその借間も退去をせまられ、目下は債権者の同僚の家に一時の宿泊を求めているにすぎないこと、債権者は本件家屋以外に財産はなにもないに拘らず、妻以下九名の家族をかかえており、債権者本人と長女智子の俸給によつてようやく生計を立てているにすぎないので、他に家を買求めたり借家を見出したりすることは出来ないばかりか、目下妻以下次女信子(当十七年)を頭に五男善次(当一年)の五男二女計八名が疎開先に残つており、これ以上長く二重生活がつづけば、それだけで経済上全くゆきずまつてしまうこととなるので、一刻も早く東京に住居を見出し、家族を呼びよせたい希望を有していることが認められる。これに対し債務者側の事情としては証人マルカロフ・マリヤの証言によれば、債務者としても一刻も早く本件家屋を明渡したいと考えているけれども、戦前より日本に居住している外国人として、他に適当な住居を見出すことは今日の住宅事情と相俟つて経済上困難なこと、本件家屋は五室に分れているが、目下これに債務者夫婦と息子一人の他、妹娘夫婦及び女中二名の計七名が起居しており、更に姉娘夫婦が始終債務者方に宿泊に来ていることを認めることが出来る。以上の両当事者の事情に、現下の東京における深刻な住宅難の実状を併せ考えると、債権者としては本件家屋の明渡を求めてこれに居住するより他に方法のないことが認められるが、債務者としても全面的に本件家屋を明渡すことは生活の根拠をうばわれることとなるものと考えられるから、債権者にとつて最少限度の必要を充たし、他面債務者の譲歩を求め得る最大限度と認められる範囲で双方が譲り合い、本件家屋中債権者は東側六畳及び四畳半の二室を、債務者はその余の部分を各使用するのが相当と認められ、従つて右二室の限度で解約申入れは、正当の事由あるものと考えられる。
よつて進んで、仮処分の必要性の有無について判断するに、債権者は、債権者の住居の必要性は右認定の程度に急迫しているから、当然仮処分の必要性も存している旨主張しているが、ある事実が家屋の賃貸借契約解約申入れの有効要件たる正当性の要件を満しているかどうかということと、かかる事実が、家屋明渡の断行という仮の地位を定める仮処分の要件たる断行の必要性の要件を満しているかどうかということとは、全く別箇の事柄であつて、右各要件は、それぞれこれを必要とする法の目的に従つて独自に解釈運用さるべきことは当然であるところ、仮の地位を定める仮処分は、債権者に存する緊急の必要性にもとずき、本案判決に先立ち、債権者のために、仮に債権者が本案判決に勝訴したのと同一の結果を来すことを目的とするものであつて、これによつて債務者のこうむる精神上、物質上の損害は著しいものがあるのを通例とするから、この種仮処分は、債権者の必要性と債務者の損害とを比較した上、何人の目にも真に已むを得ざるものとして認容され得る場合に限りその必要性あるものとして許容され得るものと言わねばならないところ、債権者が本件家屋に対する必要に迫られたのはひとえに債権者の東京転勤の事実によるものと言うことが出来、これについて債権者は東京転勤の交渉を受ける度に住居のないことを理由にこれを拒絶して来たが、今回の転勤にあたつては、これ以上断りつづけることが許されなかつた旨主張しているにかかわらず、全疎明によつても右転勤が公務上の要請に基く、必要已むを得ざるものであつたことを認めることが出来ないばかりか、証人中山智子の証言及び債権者本人訊問の結果によれば、債権者親子はいずれも今回の転勤に当り、あらかじめ上司から東京に於ける居住家屋の心当りの有無を尋ねられた際、東京には居宅があるから住居に困ることはない旨答えている事実を認めることが出来る。この事実と、昭和二十一年以降債権者がしばしば本件家屋の明渡を求めているにかかわらず、債務者がこれに応じなかつた前認定の事実を併せ考えれば、債権者親子は今回の転勤に当り、あらかじめ上司よりその承諾を求められた際、事情を説明して転勤を断る等つくすべきところをつくさなかつたばかりか、今転勤しても直に本件家屋に居住することは出来ないから、相当長期にわたり他の家族と別居生活を余儀なくされると共に、債権者親子もまた東京で居住家屋に困るに至るであろうことを覚悟の上、あえて転勤を希望する旨上申したものとみとめられる。或は、債権者は、債権者親子がまず東京に転勤し、その上で債務者に明渡を求めれば、債務者は直に家屋を明渡すかもしれないと考えたのかも知れないが、それは前認定のこれまでの当事者間の交渉の経緯に照してみるとき、あまりにも思慮を欠いた行動であつたとの非難をまぬがれ得ないものと言うことが出来るであろう。いずれにしても、債権者が住宅に困つているのは、実は上司より転勤の交渉を受けた際今日の窮状を覚悟の上でこれを承認したが、或は当然予知し得たにかかわらず、これをなさず、軽率に転勤を承諾したことに起因するものと言うことが出来る。右の次第であつてみれば、債務者としても、現在特別の余裕の部屋等のないことは、前認定の通りであるから、緊急状態が実は自らが招いたものである時は、その緊急状態を主張して他人にこれによる損害を転嫁するということは何人をも納得せしめ得るものでないことを考えるとき、他に仮処分の必要性について主張疎明のない本件に於ては、債権者申請のごとき仮処分を認容するに足るだけの必要性を欠くものと認定するの他はない。よつて本件仮処分申請は結局、仮処分の必要性に関する疎明不充分なものとしてこれを却下することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して、主文の通り判決する。
(裁判官 池野仁二 山本実一 矢口洪一)